7.27.2015

The July 27


本日のBGM:ドビュッシー(世俗の踊り)→マイケルジャクソン→バッハ(フーガ)→オ・ルヴォワール・シモーヌ
結果:シモーヌがいちばん捗った






”音楽は、感覚そのもの。体調にすら影響を及ぼすのに、どうしてもっと気づかわないのだろう”

という、高野麻衣さんのむかーしのツイートにあった一文を見つけて、はっとした。
たとえ暇つぶしに聴く音楽だとしても、そこにきちんとストーリーをつくりたいし、価値を生みたいし、見出してほしい。それは多分美術でも映画でも舞台でも同じことが言えると思う。



音楽が好きだからこそ、きちんと音楽に敬意をはらった聴き方をしたいし、背景や意図もきちんと汲み取りたい。そんな風に考えてしまうのは、4年間ひたすら批評の勉強に注ぎ込んできたことも影響するのかもしれない。



大学生で理論と批評の勉強を専攻するようになるまで、わたしはずっと批評される立場だった。遊びも勉強もそこそこにピアノとチェロのレッスンに明け暮れて、京都にいる有名な先生の講習に通ったりもした。

勝たなきゃいけない、という思いはあったかもしれない。高校時代に所属していた音楽部では、先輩たちの代は全国大会で1位、2位と入賞をしていて、学校からのプレッシャーも大きかった。部長だったから、「もし今年入賞できなくて、わたしの力不足だって言われたらどうしよう」と思いながら、毎日バスの中で泣きながら帰ったこともあった。

いざ最後の全国大会の直前になるといろいろなことが吹っ切れていて、わたしはもう演奏することが楽しくて賞なんてどうでもよかったのだけど、周りはそうじゃなかった。結果として3位入賞をいただいたのにも関わらず、学校に帰ったときに言われた言葉は「残念だったね」の一言だった。

1位じゃなきゃだめなんだろうか。わたしたちはただ音楽を楽しんで、副賞がついてきただけなのに。わたしたちの演奏は1位になれなかったから、良い演奏じゃなかったんだろうか。


そんなことを考えながら部活を引退した次の日、わたしは進路志望調査を、外国語学部から芸術学部へと書き換えた。



今週、わたしたちが卒業してから6つ下の代の子たちが、同じ全国大会に出場する。高校生なんて単純だから、ライバルより良い賞をとれたら嬉しいし、そうでなければ悔しい。でも、音楽は相対的なものではないんだよ、だから賞に入らなくても素晴らしいと思われる音楽はあるし、賞に入るような演奏でもそれが響かないひともいる。

そんなことを伝えたいなあと、後輩たちの姿を見て、久しぶりに思い出したのだった。